はいどうも、食後のグダグダとしたまとまりの無い雑記です。

時代が変われば言葉の意味合いも変わることがあるように、御朱印に関しても色々な新説が出てきてもおかしくは無いと言うことでしょうか、いやいやそれはおかしいですよ、ってネタの雑記です。
さて、1年前、2年前、3年前・・・に比べて、圧倒的にいわゆる”御朱印人口”が増えているのを感じる昨今です。嫌な思いをしたり手間を嫌って御朱印の授与を止める寺社がある一方、新たに授与そのものを始める寺社や、摂社や末社や兼務社、祀られている仏尊の新しい御朱印を追加で作成して授与を始める寺社も珍しくありません。季節や行事に合わせて、”限定御朱印”を授与する寺社も多く見掛けます。私のように外野にいる人間からしてみれば、寺社を「経営する」との立場だと、そこまで御朱印の参拝者だけに力を割けないから止めるケースも、収益のひとつとして捉えるケースも両方とも理解出来ます。ちなみに個人的には、種類が増えることや●●限定が増えることに対して、どちらかと言うならば肯定派です。ただ、祀ってもいない仏尊のイラストを描いたり、印は同じでひたすら墨書き部分を変えて種類を水増ししたり、印もなく単なるサイン帳になっていたり、”御朱印会”なんかを開催して、檀家になるでもない、その宗派に縁も信仰もない相手に対し、ただ御朱印を餌にして囲い込みを図るような過剰サービス化すること等々については・・・ゴニョゴニョですが。

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さて、そんなこんなにして御朱印人口が増えてきた昨今感じることに、「よくわからない説を唱える人が出てきた」こと。そこで今回は、私が目にした???な説(説と言うより、単なる思い込みか?)をいくつか挙げてみましょう。ツイッターや個人ブログで見た内容なので、新説や珍説に根拠や出典なんかあろうはずもなく、ネタの出処なんかは不明ですし、こっちとしてもそこまで興味を持って探す気も湧きません。

1.神様が迎えに来てくれる説
死んだ時、棺桶の中に御朱印帳(納経帳)を一緒に入れる話は昔からあります。閻魔様に裁きを受ける際、「自分は生前、これほど功徳を積んできたのだ」というのを見せて罪を軽減してもらうって話ですね。ですが、最近それに加えて、見出しのような珍説を見ました。棺桶へ入れた御朱印帳に書かれた神様(御祭神)が、死に際して迎えに来てくれるのだとか。夢や浪漫がある珍説ですね。
閻魔様と言えば仏教の側ですから、「お寺を巡って集めた御朱印帳(納経帳)を閻魔様に見せるとしたら、じゃあ神社の御朱印帳は死後どうするんだ?」っていう疑問から、誰かが作り上げた説でしょうね。

2.御朱印は、お守りやお札と同じ効果がある説
これは寺社、あるいは人によって意見が異なっているのを感じます。完全に肯定する住職や神職もいれば、大切に扱うのは当然だけれどもあくまで参拝の証以上のものではない、とする住職や神職もいます。完全に肯定する住職や神職に聞いてみたいのですが、役僧としての雇われ書家や、檀家のオバちゃん、完全に参拝者セルフなどの御朱印に、本当にお守りやお札と同じご利益はあると言えますかね?ゆるキャラのスタンプまで押された御朱印に、真剣さや信仰の色が見えるでしょうか?個人的には、お守りの効果を求めるのならお守りを授かれば良いじゃん、って思いますけど。

3.御朱印帳は新年に焚き上げなければならない説
この発言を初めて見たときは、正直笑ってしまいました。刀剣に成りきってウンチクを垂れ流している某アカウントがツイートしていたのを見たのですが、どこからネタを引っ張ってきて、あたかも定説かのように語るんだろう、と。大晦日に御朱印帳をいただいたら、翌日の元日にはもう焚き上げるのか、ってな疑問にどう答えるんでしょうかね。

4.無関係の内容を効能にしてしまう説
寺社関係者でもないただの行政書士が、個人で某協会を名乗り御朱印に関して自説を垂れ流しているアカウントを見掛けました。あくまで”御朱印ありき”かつ”御朱印は観光事業の1ツールに過ぎない”との考えのようで、御朱印を授与していない寺社はお呼びじゃないようです。
その人が言うには、あまりにもバカバカしいので全部は記載しませんが、「寺社にお参りをするので気持ちが安らかになり、落ち着きます。」っていうのが御朱印の効能なんだとか。ホント、全部で10項目書かれていますが、1つ目からこの調子なので、阿呆らしくて全部に突っ込む気にもなりません。「気持ちが安らかになり、落ち着きます」って、自分で”寺社にお参りするから”と書いてるじゃないの。寺社参拝の効能であって、御朱印の効能違いますやん。

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ま、そんなこんなでウダウダ書いてきましたが、そろそろ昼休みも時間切れです。珍説や面白ネタは、また貯まったら1回分の更新用にアップしてみようかなと思います。